xckb的雑記帳

身の回りにあったことを雑多に語ります。

ブラタモリ・那覇編の感想と雑学的な何か(4) 御物城と那覇軍港

少し間が開いてしまいすみません。ブラタモリ那覇編について。その4です。ちなみに前編はこちら。

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今回の内容に入る前に前回のイベガマの件の補足を少々。

あのあと、琉球王国の正史書である「球陽」(1745年)の長虹堤界隈に関する記述を読んでみたのですが、イベガマに関しては長虹堤建設の際に亡くなった安波根祝女(あはごんのろ)を祀って造られたチンマーサーである、という説以外にももう一つ説が紹介されているのですね。要約すると…。

昔、瀬長按司(しながぬあじ)という王の娘婿がいたのだが、その夫人はとても美人だった。大城按司(うふぐしくあじ)がその夫人に横恋慕して瀬長城へ行き、瀬長按司と酒を飲み、瀬長按司が酔いつぶれたのに乗じて瀬長按司邸に走り、夫人を手籠めにした。これを何度も繰り返しているうちに世の人の知る話となり、王は激怒。大城按司を召し寄せた上で兵を出して待ち伏せ、そこで殺害した。この死骸を葬った場所が威部竃である。

…なんという話の落差。まあ、意外にこういう散文的な話のほうが歴史の真実に近かったりするのかもしれませんが…なんだかね(笑)。ちなみに「球陽」の書き方だとこちらの説のほうが先に書いてあって、安波根祝女説のほうが「もう一説」扱いです。「球陽」は「大城按司」説のの出典を「遺老伝」と記していますが、こちらも結構面白そうなので今度目を通してみようかな…と思ってOPACで探してみると「遺老伝」ってのは見つからない。少し違う「遺老説伝」なら「球陽」の別巻としてあるので、それを図書館から借りてきてみたのですが、…いざ読んでみるとなんか見覚えのある話ばかり書いてある。ということで、家を探したら、実はもう持ってました。

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メインタイトルに「遺老説伝」が入っていなかったから、最初はこれが「遺老説伝」口語訳だと気が付かなかったんですね(サブタイトルに入ってる)。それにしてもこの本、そんなに古い時代の民話集が元だったのか。どうりでヤバい話が結構平気で載っているもんだ(とてもじゃないが今時の民話集だと各種配慮で書けない系…)と思いました。1969年の本なので沖縄返還前のもの。それにしても装丁がレトロ過ぎないか(各ページが袋状になっている)。価格が1,300円になっていて、あれ、当時の通貨ってドルじゃなかったの? とちょっと不思議になっています。

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これ、当時(18世紀初め)の琉球の民話をまとめてあって、とても面白い本なのです。しかし、この本にも借りてきた「遺老説伝」にも上記のエピソードは書いていない。もしかして「遺老伝」という別の本があったりするのかな? 不明です。



…というわけで、やっと長虹堤から離れ、次の場所は現在米軍那覇軍港内にある御物城(おものぐすく)です。ここからはそれほど思い入れのあるモチーフも少ないので、前回までよりはずっと軽い感じで書いていこうと思います。

それにしても、またも恐るべしブラタモリの政治力。米軍基地内の撮影が可能とは…。羨ましい。

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那覇港にある or あった城跡(グスクの跡)としては、主要なものとしてつぎの3つが挙げられます。

  • 御物城
  • 三重城(みいぐすく)
  • 屋良座森城(やらざむいぐすく)

そもそも、またもや登場の葛飾北斎「琉球八景」で三重城が美しい姿で描かれていたことから、私はこれらの3つの城跡に興味を持ってたのです。

葛飾北斎・琉球八景「臨海潮聲」
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番組内でも触れられていましたが、御物城は明治時代になり高級料亭「風月楼」になりました。そういえば以前ヘルシンキに行った時に、街の近場の海に散らばる小さな島々に、それぞれいい雰囲気のレストランがあって「いいなぁ」(結局行かなかったけど)と思ってましたが、まあそんな風情だったのでしょうか。その後沖縄戦で焼失、その後は那覇軍港の一部として取り込まれ今に至ります。

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(那覇出版社「写真集 沖縄:失なわれた文化財と風俗」, 1984)

実際には、この時代にはすでに御物城は島ではなく、奥武山の島と地続きになっていたのですが、その後奥武山も埋め立てなどで国場川左岸と地続きになり今に至ります。御物城は明治橋からよく見えます。

前回、現在の地図と大正時代の地図を重ねたのと同じ手法で、この御物城界隈を重ねてみたのが次の図です。

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ざっと気がつく点として次のような物が挙げられます。

  1. 戦前の明治橋は今の明治橋よりずっと御物城寄りにあった
  2. 奥武山界隈は埋め立てられているが、垣花あたりは逆に大きく削られている
  3. 御物城周りは軍港の施設の都合か、削られた場所と埋められた場所が混在している
  4. 三重城周りは既に大正時代までに大幅に埋め立てられており、あまり変化していない
  5. 屋良座森城は軍港整備で完全に破壊されたが、一方でその近くまで埋め立てられており、昔の場所で景観を保ったまま再建するには、埋め立てた場所をある程度海に戻す必要がある

ということで、実はこの界隈で気になっていることといえば、御物城跡と屋良座森城跡を含む米軍那覇軍港の移転とそれに伴う再開発についてですね。

以前から、御物城と三重城と屋良座森城をそのままの場所で復元できたらロマンチックだなー、的なことを考えていたこともあるのですが、すでに三重城はロワジールホテル沖縄の裏のただの小高い丘になってますから、ホテルを壊さないと臨海寺や旧沖宮あたりを復元できないし、屋良座森城を元の場所で「海の中に浮かぶ小島」的に復元するには、現在の海岸線を削ってだいぶ後退させる必要があります。

そのため、「さすがにそれは無理だろう」と思っていたのですが、実は「平成7年度 那覇軍港跡地利用計画(基本構想)報告書」 http://www.city.naha.okinawa.jp/H7kihon-kousou_4.pdfというレポートでは、こんな感じの再利用イメージがされているようです。この計画中では御物城と屋良座森城を活かす形での再開発が検討されていて、現行の計画でもその大筋は変わっていないはずです。

現在開発区域内または周辺に史跡、文化財が多くみられるが、特に注目したいのは御物城と屋良座森城である。この2つの遺跡は復元することによって特徴ある公園に再整備し、開発地区のシンボルとすることを提案する。しかし単に復元するだけではなく、その遺跡を中心として市民や観光客が直接利用できる施設を整備することにより、更に魅力ある公園にすることができる。

例えば屋良座森城は歴史的な船をモチーフにしたレストランや、御物城は歴史的な磁器や陶器を収めた博物館にするなど、市民や観光客が気軽に利用できる施設に整備することが必要である。

一言で言うと、「よくわかっていらっしゃる!」ですね。ありがたい。

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上の図を見ると、屋良座森城のあたりは海岸線を多少刈り込んで、『「海の中に浮かぶ小島」的な景観を復元する』ことと、『せっかく返してもらった土地を削って海に戻すのとはもったいない』というジレンマを、ギリギリのラインで調整して計算した感が出ていて、この点に関してはなかなか悪くない感じがします。ただ、できれば見かけだけでも外側は石垣の形で復元できたらな、と思います(アプローチのための道も同様)。

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屋良座森城:人が一緒に写っているのでスケール感がわかりやすい写真。
(野々村孝男「懐かしき沖縄 山崎正董らが歩いた昭和初期の原風景」, 2000)

御物城も現行の米軍施設の海岸線はそのまま活かしたまま、史跡として残すようなので、結構良く考えられていると思います。三重城はもうどうしようもないなとも思うのですが、屋良座森城が復元されるのであれば三重城の上に建っている建物もどこか近くに移して、せめて往時の雰囲気をより出した形で整備してくれれば、ホテルを壊してくれとまでは言いません(笑)。よく見ると上の図でも三重城のところが色が塗られているので、三重城の整備も計画に入っているのではないかと期待します。

なので、那覇軍港跡地の利用計画としては、私の単なるこだわりで言えばほぼ満額回答に近い利用計画ができていて、文句をいう話ではないのです。こういう計画がされていたがゆえに、那覇港を横切る新しい道路を、橋にせずに海底トンネルにするという英断ができたのでしょうね。



というわけで、本筋とはもう全然離れていますが、私が以前からずっと引っかかっているのは、その那覇軍港の移転先の話です。

浦添の海岸沿いに、キャンプ・キンザー(牧港補給地区)という米軍施設がありまして、こちらは現在のところ、2025年以降に返還ということになっています。そしてこのキャンプ・キンザー沖を大規模に埋め立てて開発する計画が以前からあり、そこへ那覇軍港の代替施設を用意することで、那覇軍港の返還の合意ができました。この辺りは浅瀬の海なので、港湾施設を作るには沖合に埋め立てるかサンゴ礁を削るかしか方法がなさそうなので、港湾部分を埋め立てるのはまあ理解できないでもないのですが、それとリゾート施設や商業施設などを見込んでかなり大規模な埋め立てが計画されたわけです。

ところがこの海岸、米軍基地として立ち入りや開発が制限されたゆえに、那覇の目と鼻の先に残った唯一の大きな自然海岸だったわけです。Google Earthで2009年2月のイメージを表示すると、この海岸に残された自然の風景が想像できます。

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ところが今のところ最新の2015年1月のイメージを表示すると、残念なことに既に南側3分の2ほどの海岸は既に埋め立てられて道路が建設され、残りの部分も海岸の近くに平行して巨大な橋が作られてしまっています。以前から私が危惧していたとおり、この海岸は既に失われた、と思ってよいでしょう。そして南側3分の2の部分はさらに沖合への埋め立てが予定されています。

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まあこれでも、以前の計画に比べればまだマシなんだよ、という意見も当然わかっていて、下の図(出典:西海岸開発に係る浦添市素案をご紹介します | 浦添市)を見ると、当初の昭和63年案では海岸全体を沖合まで延々と埋め立てて、人口浜のリゾートを作る感満載のイメージだったことが分かります。たしかにこれに比べれば結構マシではあるのですが、大幅に縮小された現行の計画であっても、揉めに揉めている辺野古の埋め立てとほぼ同等の規模の埋め立て面積で、さらに那覇至近の貴重な自然海岸とサンゴ礁の破壊を伴います。その割に反対運動が盛り上がらなかったのはなんでかなー、とか色々邪推してしまいます(しかも一応辺野古には普天間の危険軽減という大義はあるけれども、浦添の軍港移設にはそれほどの意義はないと考えます)。

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ともあれ、せっかく残った貴重な自然海岸を潰して人工の巨大リゾートを作るって、本当にそれが沖縄に求められていることなのかなぁ、と一観光客としては思うわけです。そして、自然海岸を3分の1でも守るという点の涙ぐましい妥協の産物であろう、海岸に沿った橋ですが、これは波上宮のところでも言いましたが本当に景観を損ねるので、一観光客としてはやめてほしい建築です(一方、古宇利大橋や伊良部大橋のような海岸線と垂直で離島を結ぶ巨大な橋は、議論の余地はあると思いますが、純粋に観光資源としてみた場合にも十分ありだと思っています)。

地元の利便として道路が必要なのはわかっていますが、リゾート建設計画であるからには、「なんでせっかくの観光資源を毀損するの?」と、一観光客も身勝手な意見を言っていいはずです。この道路が内陸を通せなかった理由は、2025年以降のキャンプ・キンザー返還まで待てなかった上に基地地主達との調整が面倒だったからですよね(あと、返還は多分遅れるし)。わかります。でも浦添のこの海岸は既に永遠に失われてしまいました。悲しいことです。


話を元に戻すと、那覇軍港の再開発の方は、今更守るべき自然資源もないので、失われたり埋もれてしまっていた史跡の存在を踏まえた上のリゾート開発をする、という方向性でいいと思うのです。そして、ブラタモリでも触れられていたように、1945年に米軍に占領されたまま残ってしまった那覇の中心が返還されるというのは、非常に重要なことだと考えます。ぜひ、悲しくならないような再開発をしていただきたいと、一観光客としては思う次第です。

個人的には、あの那覇空港から那覇の街へ走る時のサンディエゴっぽい雰囲気は嫌いじゃないんだけどね。いつかは明治橋を渡る時に復元された御物城が迎えてくれることを楽しみにしています。


さらに続く。次回で最終回です。

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