xckb的雑記帳

身の回りにあったことを雑多に語ります。

ブラタモリ・那覇編の感想と雑学的な何か(3) 長虹堤・イベガマ・長寿宮

さて、ブラタモリ・那覇編について、パート3です。前回長虹堤について大幅に寄り道しながら語っていたら、到底語り尽くせなかったので、パート3でも長虹堤の話から始めます。

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前編はこちら。

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長虹堤は1451年、安里橋(現在の崇元寺橋の直ぐ側にあった橋)から伊辺嘉麻(イベガマ、イビガマ)と呼ばれる場所までの約1kmの浅瀬を結んだ堤であり、番組で触れられた通り、国際貿易港であった那覇と首里を結ぶ陸路として作られたものでした。

この「イベガマ」については、私は以前からずっとその正体を謎に思ってきました。現存していないためどのような物であったかは直接的には分からないのですが、どうやら「威部」(御嶽のこと)と「竈」(洞窟のこと)と合わせた言葉らしく、長虹堤建設の際に亡くなった安波根祝女(あはごんのろ)を祀って造られたチンマーサー(石で囲って作った御嶽のこと)らしい。「ガマ」ということはもしかするとそれ以前から洞窟があったのかもしれません。

一方で長虹堤の建設を指揮した国相の懐機は、難工事を可能とした神威に感謝して「長寿寺」と天照大神を祀る神社を作ったと伝えられています。

そんな知識を持って、あらためて昔の資料をいくつも見てみるのですが、写真も残っている安里橋はともかく、やはりどうにもこうにも長虹堤のもう一端のイベガマの正体はよくわかりません。

こちらは「那覇及久米村図」伊地知貞馨(1877)の一部。「新橋」(みいばし→現在の美栄橋)の先に「ヱビガマ」と書いてあるもののそこにあるのは謎の黒い四角形です。階段のようにも見えますが、いずれにせよチンマーサーっぽくもありません。

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こちらは「琉球貿易図屏風」(19世紀)の久米村・潟原・長虹堤界隈の拡大です(他にも類似の屏風絵に「琉球進貢船図屏風」と「琉球交易港図屏風」などがありますが、前者はこの付近の描写は殆ど変わらず、後者はこの辺りの一部が剥げて欠落してしまっています。ちなみに番組中で紹介された屏風絵はさらに別のものっぽいです。いくつ有るんだろう…)。長虹堤は図右上の安里橋(崇元寺橋)に始まり、図右下の美栄橋を通って少し行ったところで終わります。この図は概ね位置関係は正しいのですが、その一方で非常にデフォルメされているため、描かれていないものがたくさんあるのです。ちなみに以前は、左側に見える鳥居が、イビガマの鳥居なのでは、と思っていたのですが、よく見ると鳥居のすぐ右上に天尊廟の傍にあった天尊堀という堀が描かれているため、ここは波上宮の参道としての鳥居と解釈するのが正しそうです。

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もしかすると、「この辺りにイベガマ?」と書いたところにある緑の小さな丘のようなものがイベガマなのかもしれませんが、そうではなく単に廃れて「描く価値無し」で省略されてしまったのかもしれませんし、19世紀には地名のみが残っている状態になっていたのかもしれません。

なお、右下の橋を泉崎橋、安里橋すぐ左の小さな橋を美栄橋と解釈する説もあるようですが(例:神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター「日本近世生活絵引 奄美・沖縄編」)、私はこれには納得できません。他の資料を見ても、安里橋のすぐそばには昔から前島方面に抜ける橋があるようですし、右下の橋の形は単なるアーチ橋であり、旧美栄橋に似ていますが、アーチが小大小と3つ連なった泉崎橋には似ていません。さらに、「島の跡」としたところを七つ墓と解釈されていますが、そうだとすると位置関係がちょっとおかしくなります(私は図中の「島の跡」が、ブラタモリで最初に紹介された島の跡であると解釈しています)。

ちなみに、前回長虹堤に関する写真は安里橋(崇元寺橋)しか持っていないと書いてしまいましたが、その後本棚から旧美栄橋の写真を発見したのでここに載せておきます。

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(那覇出版社「写真集 沖縄:失なわれた文化財と風俗」, 1984)

ちなみに「那覇市読史地図」(嘉手納宗徳)は20世紀後半になってからの作成のはずなので、当時の資料とは言いがたいですが、この資料ではイビガマは丁字路の中央に位置するチンマーサー的に描かれており、その横には長寿寺があるという解釈のようですね。

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以前述べた通り、那覇の道筋の多くは沖縄戦とその後の復興時に破壊されてしまい、ほとんど残っていません。特に番組中で「オールド那覇」と呼ばれた地域には米軍のHighway No. 1ことその後の国道58号という大通りが通った上に、再開発で旧来の道筋とは全く異なる碁盤の目状の開発がされてしまいました。そこで戦前の地図と現在の地図を重ねてみれば、比較ができるはず…なのですが、上に出てきたのようなラフな地図やデフォルメされた地図では、現在の地図との比較には使えません。

ところが、古い道筋を記録した正確な測量に基づく地図(軍機)は、基本的にGHQによって戦後破棄されてしまいました(当時は沖縄は日本領ではなかったので、当然と言えば当然かも知れません)。しかし当時の学者が隠したことで今に残った大正時代の沖縄の25,000分の1、50,000分の1の地図があり「大正・昭和琉球諸島地形図集成」として以前出版されました。

大正・昭和琉球諸島地形図集成

大正・昭和琉球諸島地形図集成

  • 発売日: 1999/11/01
  • メディア: 大型本

(追記) この本は現状では非常に希少なもので、この記事を書いた時点ではこの本を所有していませんでしたが(版元と某大学図書館に許可を取って複製して利用しました)、その後、2016年末に偶然入手できました。

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ここに収録されている25,000分の1の那覇の地図の長虹堤付近を、現在の地図と重ねてみましょう。

まずは長虹堤付近の大正時代の地図です。海岸線はかなり埋め立てられていたりしますが、古い那覇の道筋は非常によく残っています。

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この地図に、長虹堤の道筋を描き加えてみましょう。番組で触れられた島の跡や七つ墓も、きちんと等高線で囲まれていることが分かります。イベガマはおそらく古い地図に描かれた通りの丁字路のところにあり、その奥は小さな丘状な地形になっています。先ほどの「那覇市読史地図」と見比べると、おそらくこの丘に建てられていたのが長寿寺なのでしょう。

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ここに現在の地図を重ねてみます。ほとんどの新旧道筋が重ならないことがわかると思います。ちなみに地図右下に斜めにまっすぐ伸びている道が国際通りですが、番組で触れられていたように、戦前はそれに該当するような道はありませんでした。

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© 2016 Google Inc., ZENRIN

最後に、古い地図を消してみましょう。今の道筋だと、長虹堤は現在の崇元寺橋から少し西側の旧安里橋から出て、十貫瀬を通り、七つ墓横の段差のある道を通って、現在の美栄橋よりも少し西側の旧美栄橋を渡り、国道58号の松山交差点付近を通り、1ブロックほど入ったあたりにあった「イベガマ」で終わるルートとなります。

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© 2016 Google Inc., ZENRIN

旧安里橋を渡ったところから、旧美栄橋手前までは本当に奇跡的に昔の道が残っています。おそらく、細い道である割には、無視できない石造りの堤が構造物としてあったため、そのままの道筋で復興が行われたためでしょう。しかし国道58号周囲の旧美栄橋からイベガマまでは、完全に道筋が失われています。

いずれにせよ、かつてイベガマがあった場所は、おそらく今はこんな場所です。松山のアパホテルの裏側の駐車場入口あたりですね。とてもそんな歴史がある場所とは思えませんが。そして右奥すぐに丘があり(現在は平地です)、そこに長寿寺があったのでしょう。

ここで、前々回紹介した「浮島神社」の由来の話に戻りましょう。波上宮の境内にある小さな祠として仮遷座している「浮島神社」についてです。

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球陽、縁起由来によれば、宝徳三年(皇紀二一一一年)尚金福王時代、国相懐機が、長虹堤を築く時、海深く波大きにより、この工事の完成は人力の及ばざるところとして、壇を設け二夜三昼祈願をこらした。はたして、海水が涸れ海底が現れたので安里橋から伊辺嘉麻に至る長虹堤を完成することが出来たので神助と仰ぎ報恩のため、天照大神を奉じて長寿宮と奉称した。後、昭和十七年浮島神社と改称。昭和十九年戦災炎上。昭和四十年十月、那覇市天久に奉祀。昭和六十三年七月二十五日、波上宮内仮宮に遷座。

(出典: 浮島神社 沖縄県神社庁

つまり、現在この小さな祠となっている神社は、かつて「長寿宮」と呼ばれていた神社である、ということです。

「長寿宮」は名前から考えてもこの由来の記述から考えても、先ほど述べた、国相の懐機が長虹堤の難工事を可能とした神威に感謝して「長寿寺」と天照大神を祀る神社を造った…という、まさにその神社の事なのでしょう。それにしても面白いのはこの神社、天照大神を祀っていたということは伊勢の神様ですよね。琉球八社は七社が熊野神、一社が八幡神(安里八幡宮)のため、沖縄には伊勢系統の由緒正しい神社がないものだと勝手に思っていたのですが、なんとこんなところにあったとは。

ちなみに袋中・良定「琉球神道記」(1605)では、第5巻(この本はタイトルに似つかわしくなく、琉球の信仰の話は全5巻中の最後の第5巻にしか書いていない)の最初の章であるの波上権現のところに「当国大社七処アリ」と書かれていつつ、第5巻の最初に列挙されている寺社は次に挙げる九社であるという、すぐにはどれが「大社」なのかわからない謎の状態です(なお、寺の名前で列挙されているのは、「琉球神道記」が仏教側視点から書かれた書物であることと、この当時は神仏混交であったことによるものでしょう)。

  • 波上(なみのうえの)権現護国寺(波上宮に対応)
  • 洋(おきの)権現臨海寺(沖宮に対応、現在は奥武山に遷座)
  • 尸棄那(しきな)権現神応寺(識名宮に対応)
  • 天久(あめく)権現性元寺(天久宮に対応)
  • 末好(すえよし)権現満寿寺(末吉宮に対応)
  • 普天間(ふてま)権現神宮寺(普天満宮に対応)
  • 八幡大菩薩神徳寺(安里八幡宮に対応)
  • 伊勢大神長寿寺(長寿宮に対応)
  • 天満天神長楽寺(不明だが久米村にあった寺社らしい)

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そしてこのリストには、琉球八社に含まれる金武宮が入っておらず、その代わりに長寿宮に対応する長寿寺(伊勢大神と明記されている)と、現在のどの寺社に対応するかわからない「天満天神長楽寺」が入っています(ちなみにこれまた沖縄で見たことなかった天満宮です。普天満宮は名前が紛らわしいのですが、実際は天満宮ではなく熊野神の神社です)。

したがって、上の画像中にある、「七社のうち六社は熊野権現、一社は八幡大菩薩」という「琉球神道記」の記述を併せ読むと、七大社の正体は現在の琉球八社から金武宮を除いた、波上宮、沖宮、識名宮、天久宮、末吉宮、普天満宮、安里八幡宮の七社と推測が可能です。

ともあれ、これで明確に、長寿宮が古くから伊勢系列の神社であることが確認できました。歴史の古い神社であるにもかかわらず、琉球八社に入らなかったのは、真言宗の寺院に併設のものを琉球八社として選んだので、臨済宗の長寿寺に併設の長寿宮は含まれなかったとの説が有るようですが、少なくとも琉球神道記の時代(17世紀はじめ)にはすでに長寿宮は大社として扱われていなかったのですね(ちなみに「琉球神道記」著者の袋中は浄土宗の人)。



というわけで、イベガマの前にあった神社(そしてその由来は互いに直接関係がある)は、実は一旦天久に遷座した後に、波上宮の中に小さな祠としてひっそりと存在していたということが分かり、私は長年謎に思ってきたこの「イベガマ」について、少しイメージができるようになってきて嬉しく思います。



追伸:ちなみに私が琉球八社で一番好きな神社は末吉宮です。首里の山奥という立地も良く、この石段の上にある社殿の姿も凄いのですが…。

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この奥にある御嶽と思われる空間の荘厳さは本当に素晴らしい。

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実はこの左側のガジュマルの樹が7年前に倒れてしまい、この姿はもう見られません。いつかまた別の樹がこの空間を形作ることになるのでしょう。さらにこの階段の先には「子の方」(にぬふぁ)という聖地があります。

(ちなみにこの写真は白黒ですが特に古い写真ではなく、8年前に私が白黒フィルムで撮った写真です。ニコンF3, Ai-Sニッコール35mmF2.0, ネオパンプレスト400)

まだまだ続く。

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ブラタモリ 6 松山 道後温泉 沖縄 熊本

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  • メディア: 単行本