2月27日、3月5日と、ブラタモリが首里、那覇編を放送しました。ある程度雑学知識を持っている街をブラタモリで放送されたのを見るのは初めてだったので、なかなか新鮮でした。いや、いつ沖縄やるんだろうなー、とずっと待ってたんですよ、本当に。
なんか両方語ると長くなりそうなので、那覇編の内容について思ったことをまとめてみようかと思いますが、それでも長くなりそうなのでいくつかに分けましょう。
その前に首里編について簡単に。
- 御内原(おうちばる)の復元現場に入れて羨ましい!
- 首里城・瑞泉門の脇の龍樋(りゅうひ)、私も水道水だと思ってた。水質分析ではミネラルの状態などから水道水じゃなさげということでしたが、沖縄の水道水は硬水なのでまだ私は少し疑ってる(笑)。
- 最後に出てきた樋川(ひーじゃー)、いい雰囲気の場所ですね。私有地だそうだけれども行ってみたい(検索したところ、入っても構わなそうな感じではある)。
御内原は同じくNHKの「テンペスト」を見ていた人にはお馴染みの、いわゆる「大奥」相当の部分ですね。ちなみに御内原付近の復元現場ですが、数年前に行った時は、観光コースでも首里城正殿に入る直前で右を向くと工事現場が見えましたが、入れませんでした。現在は黄金御殿(くがにうどぅん)、寄満(ゆいんち)、近習詰所(きんじゅうつめしょ)、奥書院は既に復元が終了していて入れるみたいですね。今度沖縄に行ったら久々に首里城に行ってみようかな。
そんな感じでした。これ以上長くなってもアレなので那覇編の話に移ります。
国際通りの風景をバックに、今回のお題は「那覇は2つある」だそうです。ああ、久米や辻のあたりと、壷屋や国際通り界隈のことだな、当然ブラタモリならそう来るよな、ということでここですでにワクワク指数が頂点に。
そして波上宮(なみのうえぐう)へ。さすがはブラタモリの政治力(笑)、波上宮の裏の御嶽のところまで入っていて、本当に羨ましい。番組でも触れられていたとおり、沖縄の神社はもともとあった御嶽を基礎としており、神社の奥まったところには御嶽が現在も存在している事がほとんどです。
波上宮は「琉球八社」のうちの一社で、葛飾北斎の「琉球八景」にも描かれている由緒正しい神社。ちなみに北斎の元ネタは中国の「琉球国志略」(1756)で、この本の白黒挿絵をトレスしてアレンジを加えて浮世絵にしたものです。なお、北斎の琉球八景についてはこの後もまだ何度も出てきます。
葛飾北斎・琉球八景「筍崖夕照」
ちなみに、「琉球八景」や「琉球国志略」の中でも波上宮はすでに御嶽の形ではなく、鳥居を持った神社として明確に描かれています。琉球八社は庶民の信仰というよりも王府の宗教施設としての性格が強かったようなので、より薩摩の影響をうけたということもあるのかも知れません。また、薩摩の侵攻以前から神道は沖縄にかなり入っていたという話もあるようです(後に触れます)。いずれにせよ、沖縄の神社が何でもかんでも戦前の皇民化政策の影響、的なステレオタイプは正しくありません。
話を戻すと、ちょっと違和感を覚えたのは、港町との関係で波上宮が出てきた件。航海安全のための拝所ってのは、私のイメージでは波上宮ではなく三重城(みいぐすく)なんだけどなぁ…。三重城はもともと那覇港の北砲台だったのですが、近世以降はその意味も薄れて拝所となっていたはずなのです。ちなみに南砲台は那覇軍港の埋め立てで完全に破壊された屋良座森城(やらざむいぐすく)。もしかしたら砲台が現役の頃は波上宮がそういう拝所的役割だったのかな?
三重城から那覇港入り口を望む写真。昔はこの対岸に屋良座森城があったはず。
ちなみに三重城も「琉球八景」の中で描かれています。
葛飾北斎・琉球八景「臨海潮聲」
ああ、この状態で見たかったなぁ。この辺りは戦前の時点(大正以前)ですっかり埋め立てられてしまい、今はこんな場所になってしまっています。琉球八景で手前に描かれている寺(臨海寺)は今は影も形もありません。ただし神仏混交で同じ場所にあった沖宮(おきのぐう、琉球八社の一社)は現在奥武山に遷座された状態で現存しています。ちなみに右奥に見える岩は波上宮と思われます。
そういえば、波上宮のそもそもの発祥は、この岩にある穴が元だったという話もあるようですね(実際に行ってみると、いくつも穴が開いているのでどれのことかわからない)。
ブラタモリでは、波上宮の下を少し外れた波の上ビーチにある岩のノッチのところで、周囲の埋め立てについて触れられていました。
埋め立ての歴史がわかるノッチのポイントとしては、私が気に入っていたのは那覇バスターミナルにある仲島の大石(なかしまのうふいし)だったのですが、今ここは再開発で工事中なのですよね。まさか仲島の大石を再開発で削ったりしないですよねー。と心配している内地の人間でした。拝所にもなっているのでそれはないと信じているのですが。
ここの面白いところは、昔の姿が記録されている資料が存在するところです。上原 正稔, Rob Oechsle, 照屋 善彦『青い目が見た「大琉球」』に収録されている、"Frank Leslies Illustrated Newspaper (New York) Vol.1 #20" (April 26, 1856) もしくは "#20 (May 10, 1856)", "Vol.5 #119 (March 13, 1858)" に載っているらしい、この絵です。
以前、現在(とは言っても10年ほど前ですが)の仲島の大石と、この絵を重ねて写真を作ってみたのですが、150年の間にどれだけ土に埋まったかがよくわかります。
あ、再開発の方は、ストリートビューで見る限り大丈夫そうではありますね。
ちなみにこの仲島の大石も、琉球八景で描かれています。
葛飾北斎・琉球八景「中島蕉園」
波上宮に話を戻すと、境内には仮遷座している小さな祠のような神社が何社かあり、そのうち一社は「浮島神社」といいます。
「浮島」とは、番組で触れられていたいわゆる「オールド那覇」に相当する、かつての島を示す言葉です。今でも「浮島通り」という名前の通り(おしゃれ小さな店が並ぶ通りですね)が那覇にありますが、その「浮島通り」は「オールド那覇」ではなくまさに「ニュー那覇」のど真ん中にあるので一瞬不思議です。実はこの通りは「浮島ホテル」というホテルから付いたものなので直接「浮島」とは関係がないのです。番組の最初で紹介された、国際通りの名前の由来と似てますね(「国際劇場」という映画館が由来)。
さて、この浮島神社は番組のこの後でも出てくる「長虹堤」を作った国相懐機にまつわる神社です。
沖縄県神社庁のサイトによると…。
球陽、縁起由来によれば、宝徳三年(皇紀二一一一年)尚金福王時代、国相懐機が、長虹堤を築く時、海深く波大きにより、この工事の完成は人力の及ばざるところとして、壇を設け二夜三昼祈願をこらした。はたして、海水が涸れ海底が現れたので安里橋から伊辺嘉麻に至る長虹堤を完成することが出来たので神助と仰ぎ報恩のため、天照大神を奉じて長寿宮と奉称した。後、昭和十七年浮島神社と改称。昭和十九年戦災炎上。昭和四十年十月、那覇市天久に奉祀。昭和六十三年七月二十五日、波上宮内仮宮に遷座。
(出典: 浮島神社 沖縄県神社庁)
実はこの由来をじっくり読むと色々面白いことが想像できるのです。意外に歴史が深そうだぞこの社。詳しくは長虹堤のところでもう一度紹介します。
懐機が建設したもので今に残っているものとしては、首里城の横にある人工の池、龍潭が有名ですね。
それにしても、波上宮の上から見ても、波の上臨港道路は無粋な場所に橋を作ったものだなぁ。
こう考えると、そのさらに向こうに見えてる那覇西道路が、那覇港を越えるのに橋ではなく海底トンネルにしたというのは那覇の景観を守る上では大正解だね(費用はずっと高かったと思うけど)。せっかく「那覇軍港が返還された後は、歴史を踏まえた跡地の開発をする」とか言ってても、肝心の那覇港に無粋な橋がかかっていたら目も当てられない。
(波の上のところは一本だった橋が二本になっちゃったけど、もうこの部分は一本でも二本でも同じだからね)
ああ、まだ番組の4分の1くらいしか語ってない…。まだまだ続く。続きはこちらで↓。