さて、4月10日(土)に、高輪ゲートウェイ駅(相変わらずこの名前には抵抗がある)付近の再開発現場で出土した「高輪築堤」の一般見学会に行ってきた。これは新橋・横浜間を結んだ日本最古の鉄道の遺跡ということで、まあ何とも行ってみたいところ。見学人数が限られる中で電話のみの申し込みという、久々に体験するオールドテクノロジーによる申し込みを1時間ほど続け、なんとかエントリーできた。こういうの懐かしい。
ということで、通勤時に結構頻繁に通っているにもかかわらず、これが初めての下車となる高輪ゲートウェイ駅。
駅の西側に降りると、おお、前の時間の組だと思うけれども、見学している様子が!
今回は、うちの小学生男子も連れていった(他にも結構子供連れの人はいたな)。まあ、プライベートな社会科見学だな。ということで、みんなでヘルメットを被り、発掘現場へ。ここが高輪築堤だ。
今回の公開範囲は「4街区」と呼ばれている地域。前回公開されたらしい「3街区」の橋梁部分はないが、日本最古の信号機跡が含まれるエリアで、高輪ゲートウェイ駅の正面に相当する(実は前回の一般公開情報を見逃していて事後に知り、後悔していたのだった…)。
かつての新橋・横浜間の鉄道は、このあたりでは海の上に線路を作って走っていた。これは陸地の部分が軍用地となっており、鉄道の敷設を拒否されたため、とのことらしい。経緯はともかく結果的に、当時の最新技術である鉄道が、海の上の線路を通るという実にハイカラな景色が誕生したのだな。
高縄鉄道之図(歌川芳年、助筆 歌川年延)明治4年(1871年)9月
出典:港区ゆかりの人物データベースサイト 高輪鉄道
那覇の長虹堤を知って以来、海上道路的な歴史的建造物に萌える回路ができてしまったらしい俺の趣味にはまさにこれはツボなのだ。詳しくは以前、ブラタモリの那覇編に便乗して長虹堤に関して書いた本ブログのこちらの記事を参考に。
xckb.hatenablog.com
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しかもそんな遺跡がこんな広大に発掘されるとは! 上の地図で示した橋梁の場所などを考え合わせると、おそらく上の錦絵の奥の方のちょっとS字にカーブしている真ん中あたりがこの写真の場所だと思う。ちなみに、上の方の石垣がなくなっているのは、海上の部分の石は、後にここが埋められる時に再利用のために使われてしまったらしい。
どうやらここが日本で最初の信号機の跡らしい。とはいえ当時は電気の信号機じゃなかったはずなので、機械式信号機だったんだろうな。いわゆるセマフォってやつ? (でも、結構初期から複線だったらしいけど)
当時の品川駅からはそれなりに離れているし、本当、どういう信号機だったんだろうな。
最初(明治5年)は単線で開業、明治9年に複線化され、明治32年にこの写真の奥の方(陸側)に拡幅されて3線化されたらしい。その部分は奥の建物や道路の下にまだ埋もれているんだろうね。
地盤の改良のために、海側に非常にたくさんの杭が打たれている。
この木製の部分も当時のものなのかな?
しかし特に海中にあった部分に関しては、実に綺麗に残っているもんだなぁ。
ここが掘り出される前は、真上をつい先日まで京浜東北線や山手線が走っていたわけで、自分も毎日のように通勤でこの上を電車で通っていたというのはなかなかに感慨深い。
この高輪築堤、要するに開発するかといって土を掘ったら出てきてしまった遺跡っぽくって、しかもその開発が国鉄の後継者と言えるJR東日本ということで、色々と揉めているようだけれども、まあ全部が全部を後世に残すというのもまた結構現実的には難しいところかと。JR東日本さんにとっては色々と思うところはあるかと思うけれども、可能な範囲で史跡としての保存などができればなぁ、と望むところ。
でもここまでの壮大な風景として見ることができるのは今のうちかもね。特にこの4街区には信号機跡以外に目立ったものもないし。
iPhoneでパノラマ写真も撮ってみた。
…ということを考えながら、30分強の見学時間を終え、なんかフォントに違和感を感じる高輪ゲートウェイ駅に戻ってきた。
駅構内のコンビニが、AIで店内で手に取った物を認識してSuicaのセルフレジで購入するというやつだったので、少年と2人で試してた。少年は生まれて初めてのSuicaでの買い物がこんなパターンという、実に未来人な感じで問題なく買い物できていたのだけれども、私は実際には手に取っていない商品を手に取ったように誤判定されていてレジで修正。まだ認識精度には若干の問題がありそう。
まあ、最新鋭設備の駅の前で日本の鉄道の夜明けの遺跡を見ることができるというこの高輪ゲートウェイ、それを生かした形で再開発されるといいなぁ、と思うところ。JR東日本さん頑張って!