さて、ブラタモリ・那覇編について、パート2です。
書いてるのが内地の人間なので、こんな楽しいことがあってもすぐにロケハンに行けないため、写真が古い点はご容赦(その分、今となっては貴重な写真もあるはず)。
前編はこちら。
タモリさん一行、波上宮からすぐ近くの孔子廟へ。番組では「天尊廟、天妃宮」とされていましたが要するにこの場所には中国のいろいろな神様が集まっているようです。ここでは久米三十六姓の話などをしていましたが、戦前は孔子廟は現在の場所ではなく、泉崎付近で現在道路(国道58号)になっている場所にありました。現在は那覇商工会議所が建っている場所の前です。それを示すものとして、現在も那覇商工会議所の横には孔子像があります。
ちなみに孔子廟が現在の場所に再建されたのは1975年です。実際の経緯としては、天尊廟が元々合ったところに、国道58号ができたために元の場所に再建できなくなった孔子廟が移ってきた…というのがより正確なようです。
現在は同じ孔子廟の敷地内にある天妃宮も、以前は別の場所にあり、名前がそのままな那覇市立天妃小学校の横に石門の跡が残っています。
このように、久米村は古き那覇のチャイナタウンだったわけですが、この久米村も葛飾北斎「琉球八景」に描かれています。
葛飾北斎・琉球八景「粂村竹籬」
竹の垣で囲まれた家はどうも中国風のものらしいです。この絵は、現在のどの場所に当たるかはよくわかりませんが、久米村のどこかを描いたもののようです。
もう一枚、久米界隈の絵としては、これもあります。
葛飾北斎・琉球八景「泉崎夜月」
これは旧孔子廟の前にあった旧泉崎橋を描いたものです。現在の泉崎橋からは150メートルほど離れています。おそらく画面右側が久米村の方向かと思われます。
那覇港が国際貿易港だったという話ですが、実はローカルな船は那覇から少し東の泊から出ていたようです。今「とまりん」がある場所ですね。現在は沖縄の離島への船などが発着するのが泊港で、那覇港は米軍の港(返還予定)になっているということで、これはこれで以前の役割分担が別の形になって現在に残っている感じです。
そして番組でも触れられていた通り、国際貿易港であった那覇の浮島と、首里を繋ぐために作られたのが「長虹堤」という石造りの堤です。番組で紹介されていたこのイラストは、北斎の琉球八景の元ネタとなった中国の「琉球国志略」にあるものです。
なので、琉球八景にもこれをもとにした浮世絵があります。遠くにさりげなく富士を配置するところが、北斎先生のお茶目なところです…と思ったのですがよく見るとオリジナルの方にも富士山っぽい形の山が描かれているのですね。
葛飾北斎・琉球八景「長虹秋霽」
そもそも、元々、私が琉球八景に興味をいだいたきっかけになったのもこの作品で、一体この絵が沖縄のどこに当たるのか全く見当がつかなかったからでした。そうして色々資料を調べた末に行き着いたのが、今回タモリさんご一行が歩いた長虹堤跡の道の一部が残っている「十貫瀬」(じっかんじ)であり、目を引かれたのも番組に出てきた2つの島の跡でした。
まず私が気になったのもこの島の跡。
ちなみに中を覗き込むと、どうやら何か石の構造物が色々とあります。
お墓でしょうか?
そしてこちらの第二の島の跡。こちらは番組では殆ど一瞬しか映らなかったのですが、実はこちらの方が大きく、由緒もよくわかっている島の跡なのです。
なのになぜ一瞬しか映らなかったかというと、理由は想像がつきます。以前は簡単に近づけたのですが、現在は前に大きなマンションが建ってしまい、近づけなくなってしまったのです。
この島の跡の名前は「七つ墓」。怪談「十貫瀬の七つ墓」の舞台でもあります(詳しいストーリーはここでは紹介しきれませんので、検索してみてください)。
「中山傳信錄 二」(1721年)に、かつての長虹堤周りの風景が記述されています(最近はこういう一次資料へのネットでのアクセスが簡単になって嬉しいですね)。中国からの使節を迎える宿泊施設の天使館から、中山先王廟(これは現在の崇元寺のことです)に至る長虹堤の風景が描写されています。
(出典:徐葆光 「中山傳信錄 二」)
長虹堤の長さは「二里」と書かれていますが、中国の一里は400m程度らしいので、800mで大体合ってます。一般的には、ここで次のように記述されている「七星山」が七つ墓のことだと言われています。
堤長亘二里許 下作水門七 以通潮 堤旁有小石山 名七星山 七石離立沙田中
ただし、「七石離立沙田中」という言葉のイメージと今の七つ墓のイメージは合わないですね。おそらく「七星」は北斗七星のことと思われるので、そういうイメージだと美栄橋から国際通りの間あたりに点在した様々な高台や島の跡(先ほど最初に紹介したものを含む)を総称して「七星山」と読んだのが一番ありそうに思います。そしてたまたまどちらも「七」の文字を持っていたので混同されるようになったというのが私の想像です。
ちなみに「中山傳信錄 四」にある琉球国の地図でも、「七星山」は長虹堤に沿った幾つもの岩の連なりで構成されているように見えます。よく見ると、大きな岩が2つ(多分先ほどの2つの島の跡)、あと小さなものがいくつか…にも見えますね。
長虹堤付近の拡大図(赤く囲った部分の拡大)。
(出典:徐葆光 「中山傳信錄 四」)
そしてこの地図を見ると、島だった頃の那覇のイメージが良くわかります。時代が古いので、長虹堤の影響などで自然に土砂が堆積してしまった海の部分がまだ十分に浅瀬だったのでしょう。
そんなわけで、話を七つ墓に戻します。簡単に行けた頃の七つ墓の写真をいくつか…(この場所に無縁墳墓の改葬公告が出ていた7年前、記録に残しておくべきだと思い、撮っていました)。
このお墓は、マンションが建つ前にあったビルが取り壊された時に、外から見えるようになったものです。ほんの数年だけ見えていました。
上の方には、「七つ墓」の名の通り、古いお墓がいくつも並んでいました。
そうか、番組で紹介されていた「段差」のある道のところから、もう七つ墓はほとんど見えないのですね。それは結構残念だなぁ…。
七つ墓は、以前からホテルの開発計画が上がったり、無縁墳墓の改葬公告が出たり、目の前に大型マンションが建ってしまったり、果ては「売地 那覇市都市計画地・投資向けです 361坪」なんて看板がゆいレール美栄橋駅から見やすい場所に立てられたりと、以前から私が存続を危ぶんでいる史跡です(なので個人的にいろいろと写真を記録したりしてきている)。このままの姿で那覇の街の中にひっそりと歴史を伝えてほしい、と思います。
ちなみに、長虹堤自体の写真は現在ほとんど残っていません(戦前の沖縄の写真は戦災で多くが失われ、その中でも長虹堤の写真はほとんど残っていないようです)。私の色々なコレクションの中にも存在せず、あえて言えば長虹堤の一番首里寄り、崇元寺のそばにある旧安里橋(旧崇元寺橋)の写真を持っているくらいです。ちなみに現在の崇元寺橋の場所とは少し離れた場所です。
(出典「望郷沖縄〈第5巻〉沖縄県人物風景写真集」, 1981年)
でもこれは堤というより単なる橋の写真ですよね(それにしてもamazonマーケットプレイス、すごい値段がついてるな。でも売らないよw)。
ということで、長虹堤そのものの唯一綺麗な写真として私が知っているのは、あの「段差」の道路の横にある歴史解説の看板に映っている写真です。
そんなわけで、今回ブラタモリで長虹堤のイメージをCGで作ってくれたのはなかなか嬉しいサービスでした。でもせっかくだから江戸のブラタモリみたいに人が歩いたりしてくれていたほうがさらに雰囲気出たかなぁ、とか(すみませんないものねだりで…)。
ちなみに、以前私も国道58号とかつての長虹堤がクロスしていたと思われるポイントに、先ほどの写真を加工して合成してみたことがありました。
いま見てもなかなか良く出来ているでしょ?
長虹堤に関してはまだ話が長くなりそうなので、ここらで一旦切って、次回に続きます。
ええっと、また番組の3分の1くらい?